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自由に生きるために取り入れたい9つの考え方

自由に生きる

誰しもが、「自由に生きたい」と考えていることでしょう。

しかし、自由に生きると言うことの形は、人それぞれです。

「これが自由」と言う定義が、人類全体共通であるわけではありません。

自由に生きるということは、その人それぞれが窮屈ではなく、不自由でないことをさします。

よって、自由価値観が人それぞれであるために、全員が自由を求める時、必ず他者と衝突することになります。

今回は、人が自由に生きるということはどういうことなのか、そして、それが可能であるのかをお伝えします。

自由に生きるために取り入れたい9つの考え方

自由に生きるということはどんなことなのか

今の世の中で、自由に生きると言うことは、基本的に経済に縛られている限りは不可能です。

自由と言う言葉は、実はあまりにも漠然としている言葉なのです。

「ここまで好きにできれば自由だ」と言う人や「それでは足りない」と言う人がいます。

しかし、前者も、結局は完全な自由ではなく、制約の中で納得せざるを得ない、自由と名のついたものを手にしているだけです。

後者も足りないとは言え、どこまで言っても真の自由には辿り着けません。

真の意味での自由に生きるとは、何もないと言うことです。

何か1つでも持てば、それはすでに自由ではなくなっているわけです。

つまり、本当の意味での自由は、この世に存在しません。

その人それぞれが考える自由に近いもの、それを目指して、それぞれが自由に生きることを考えるしかないのです。

人との交流をやめる

この世で最も不自由でやっかいなのが、人間関係です。

心理学者のアドラーが、「自由のためには人に嫌われる必要がある」と提唱していることと近いのですが、他人と接触すれば自由はなくなります。

他者といることは、妥協とガマンの連続です。

他者といながら、自由にお互いが振る舞おうとすれば、いさかいが起きるだけで疲弊(ひへい)しかしません。

誰も周囲からいなくなれば、自由に生きることに近づけるのです。

孤独や孤立は、不自由ではありません。

寂しいと言う思いも、不自由にはあたりません。

一人でいることが、自由の第一歩です。

資本主義から離れる

人間の自由を縛るのは、人間関係と並んで、欲望が非常に大きな役目を担います。

物欲などがあれば、自由に生きることはできません。

なぜなら、物欲があれば仕事をしなければなりませんし、そこで人間関係も生まれてしまいます。

仕事をするということは、仕事に追われる日々を過ごす必要があり、自由とは呼べません。

何も欲しがらない、生きていく上で必要最小限のものを得るだけの生活に切り替えなければ、自由には近づけません。

心の自由とは?

物質面ではなく、心の自由が欲しいと言う人もいますが、心の自由とはそもそも何でしょうか?

現代社会においては、物質と精神は切っても切れないものです。

心が豊かになるということに関しても、結局は人によって価値観が違います。

物質面で満たされるからこそ、心が豊かだと感じる人もいますし、物質に汚されては精神の自由は得られないと言う人もいます。

しかし、今の社会において、心が自由に生きるには、詰まるところ、生活に苦慮しないことが最低限の条件になります。

人間同士のつながりも、一緒に時間を過ごして初めて、相手のことが判ります。

豊かな人間関係にも、お金はつきまとうものなのです。

よって、心だけ自由であり続けると言うことは、現代においては、ほぼ不可能であると言えます。

自由で自然体な私というもの

よく芸能人や芸能人かぶれの人が、自分は自然体で自由に生きると主張します。

しかし、これはおかしな話で、人に話すこと自体が自然体でも自由でもない証拠で、凝り固まっていることを自ら明かしているも同然なのです。

皮肉なことに、自由に生きると考えれば考えるほど、自由というものにとらわれて不自由になります。

自然体で生きることも、それにこだわれば、それはすでに自然体ではないのです。

つまり、真の自由や自然体は何もしないことなのです。

何も考えず、何もしない、そして何も持たない、それが自由で自然な形と言えます。

ですが、これもこだわってするようなら、それは自由でも自然体でもないのです。

自由であることの難しさ

選択の自由や、自由意志は概念であって、自由に生きることとは違います。

しかも、選択の自由も常に自由に選べるわけではありませんし、自由意志も大きな力の前では無力です。

人と関わる、社会と関わる、こういったことがある限り、必ず不自由さとぶつかります。

選択の自由もまた、近親者や、他の身近な人の制限を受けますし、自由意志も他者の自由意志とぶつかります。

やりたいことだけやって自由に生きると言うことは不可能ですし、それではルールというものがないに等しい状態になります。

ルールと言う枠の中で、好きに生きても、それは真の自由とは言えないでしょう。

結局は、世捨て人のように生きていくことが、最も自由に近い生き方と言えるのかも知れません。

なぜ自由でなければならないのか?

多くの人の口癖は、「自由に生きる、自由になりたい」と言うものです。

しかし、なぜ自由でなければならないのかということに、答えられる人はいるでしょうか?

そう言っているほとんどの人が、本当に不自由に生きている人よりは、数段自由に生きているはずです。

物質面、精神面においても、自分より窮屈で多くの制約の中で生きるしかない人は、世の中にはたくさんいます。

アドラーが提唱する「人に嫌われて構わない、それで自由になれるなら」という考え方で言うと、「なぜ、人に嫌われてまで自由でないといけないのか」という考えもできます。

自由でなければならないと考える人は、現在の何に不自由を感じているのかを深く理解できているとは言えません。

ある一定のレベルで、現代の日本人の多くは、かなり自由であるはずです。

それ以上を望むのであれば、人とは同じ生き方はできないでしょう。

自由と好き勝手は違う

結局、自由に生きると言う人の多くは、自由と好き勝手を勘違いしています。

現代生活を送る上では、日々の生活の中で最低限の決まったことはしなければなりません。

ですが、それ以外の時間というものが、全くないわけではありません。

その中で、自由に振る舞うかどうかは自分次第です。

日々の生活の決まった事まで自由にしたいと言うのであるなら、それは自由に生きるのではなく、好き勝手をしていると言うことになります。

今の社会では、ルールや社会規範の範囲内で自由を謳歌するしかなく、真の自由ではなくても、生きていくためには仕方がないことなのです。

また、多くの人が自由に生きたいと考えており、みんなが自由に振る舞えば、必ず利害が衝突します。

自由は心持ち次第

現代社会に合致している自由に生きるということは、詰まるところ、心の在り方次第でしかないのです。

現実に物質的なことで縛られていても、心がどれだけ解放されているか、心に何もわだかまりを持たないかが、自由でいられるかどうかの分かれ道です。

どんなに大きな大木でも、強い衝撃で折れてしまいます。

しかし、強い嵐でも風に任せて揺れる柳は、あっちへこっちへと振りまわされますが、決して折れることはありません。

心が自由であると言うことは、まさにそういうことなのです。

変に逆らわず、とらわれず、自由でありたいということにすらこだわらない、それが自由であるということと言えるのです。

自由になりたいと考えている内は、自由にはなれないと言うことです。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

今回は、自由に生きるために取り入れたい考え方について説明してきました。

現代社会において、自由に生きるというテーマは、極めて難しいことです。

常に、ルールや常識、規範の中でしか動けませんし、人との付き合いの中で、折り合いや妥協をしながら、せめてもの自由を得るしかないからです。

ただ、心の中だけは誰しもが制限なく自由です。

自由をどうとらえるかが、自由になる最も大きな鍵と言えます。

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