同調圧力と同調行動を検証した有名な実験に、アッシュの同調実験があります。
実験の手続きは簡単です。大きなテーブルを囲んで7人の大学生が着席し、実験者が呈示する2枚のカードを見比べ、基準カードに描かれた『線』と同じ長さの『線』を、比較カードに描かれた3つの『線』の中から選ぶことを繰り返すというものです。このとき、実際の被験者は6番目に答える1人の学生だけで、他の6人は実験に協力するために参加したサクラです。
周囲のサクラが間違った回答をすると、それにつられるようにして被験者も間違った回答をしてしまう。
今回の記事においては、アッシュの同調実験からわかる危険な話を語ります。
正しい答えを知っていても間違った答えを選ぶひとたちがいること
アッシュの同調実験において、前もって実際の被験者一人だけで単独回答させた場合は、95%の正解率だったのに、5人のサクラが誤った答えを言うのを聞かせたあとに、同じ問いを被験者にすると65%にまで正解率が落ちました。
95%から65%を引くと30%です。
つまり、だいたい3人に1人が、最初に正しい解答ができていたのですから、正しい答えを知っていたと言えるのにもかかわらず、周囲のサクラの間違った答えに同調して、自分の答えを変えてしまったのです。
別の研究者により、このような表向きだけの同調を『追従』と言い、実際に信念や態度を集団の方向に変化させることを『私的受容』と呼んで区別されました。
世の中には、多数派の意見に『追従』して、自分の考えていることが正しいと思っていても、それを引っ込めて、別のことを言うひとたちが相当数いるのです。
そういうひとたちに対して、何が正しいのか、弁論研究会で鍛えた弁論術を駆使して説得しようとするようなことは、実に愚かなことです。
彼ら・彼女らは、他人から何が正しいのかどうかを教えてもらう必要はなく、何が正しいのかは最初からわかっている上で、間違えた答えを敢えて口にしているのです。
同調圧力に『追従』した場合、往々にして自己責任とみなされること
アッシュの同調実験において、被験者は他のサクラたちとまったく対等の立場に置かれ、他のサクラたちから被験者に対して物理的暴力・言葉による干渉は一切行われませんでした。
つまり、現実社会において、目に見えない同調圧力で、自分の答えがゆがめられてしまう可能性があるということです。
ところで、自由とは、その古典的な定義によれば、『他者からの恣意的な干渉を受けない』ということです。恣意的ではない障害があった場合、たとえば、雨が降って子どもが遠足に行けなかったというような場合には、『自由が侵害された』とは言いません。
アッシュの同調実験においては、被験者そのひとに対して精神的圧力をかける意図があったのですから、意思決定の自由の侵害を認めることができますが、現実社会の同調圧力は往々にしてそのような意図はありません。
目に見えない同調圧力に『追従』して、自分が正しくないと思う意思決定をしたとしても、その意思決定は、『自発的なもの』で自由な意思決定と評価されることになります。
その意思決定によって不都合な結果が生じたとしても、他人の責任を問うことは一切許されず、自己責任とされてしまいます。
集団的意思決定は内容が突然に大きく変わる可能性があること
先にも述べましたように、アッシュの同調実験の結果からすれば、正しい答えを知っていても自分の気持ちを押し殺して間違った答えを選ぶというひとたちが、集団の内部には相当数います。彼ら・彼女らは物事の正しさに対するこだわりが、希薄です。
集団の内部の多数者の意見の方向が変わったと判断すれば、彼らは昨日まで言っていたこととまるで逆のことを、平然と口にすることができます(変わった方向こそ、本来に彼ら・彼女らが正しいと思っていた方向の場合は、特に、そうです)。
目に見えない同調圧力は外部から認識が困難であり、また、仮にそれを認識できたとしても、それが意思決定の自由への侵害にあたらないものとすれば、法律や倫理によってブレーキをかけることはできません。
集団内部の中で、相当数の人々が、その転向の予兆をほとんど見せることなく、自分の『自発的な』意思決定を180度変えてしまう可能性があるのです。
同調圧力に『追従』する人々の割合の多い集団のボトムアップ型の意思決定は、ややもすれば、単独の個人によるトップダウン型の意思決定よりも、不安定なものになる危険があります。
まとめ
いかがだったでしょうか?
アッシュの同調実験が示唆する危険は、同調圧力に『追従』する人々を集団から排除すれば解決するという単純な問題ではありません。
そういう同調圧力に敏感なひとたちほど、対人スキルが高い傾向があり、その能力が集団にとって必要、ないし有用であることも多いのです。
その難しさを理解した上で、私たちは同調圧力の危険に対処していかなければなりません。