『性善説』と『性悪説』と言うものがあります。
これは人間が先天的に持っているもの、つまり生まれながらに善の存在なのか、悪の存在なのかと言うものです。
もちろん、これは先天的にどうであれ、後天的に何を学ぶかにおいて、両方の側面を持つと言う事ですので、どちらの説をとっても人間がそれだけの側面しか持ち合わせていないと言う事とは違います。
とは言え、もし後天的に何も学ばなかったとしたら、人間の社会に道徳やモラルと言うものが何もなかったとしたなら、果たして人間はどちらの存在なのでしょうか?
この概念が提唱されて後、人々はずっとこの事で議論を繰り広げてきました。
そこでここでは、性善説と性悪説についてご紹介します。
性善説とは?
性善説とは、元々儒教に由来するものです。
人間の本性は、先天的に道徳的な規範を有しており、悪の行為はその本性を汚損、隠蔽することから起きると言う孟子が唱えた説です。
つまり、人間は生まれながらに善の存在ではあるが、後天的に学ぶ事で悪に汚染される事もあると言う事です。
しかし、この説では、悪に汚染されても人間の本性は善であると言う事なのです。
性悪説とは?
性悪説は孟子の性善説に対して、荀子が提唱したもので、こちらは必ずしも儒教の教えと言う範疇ではありません。
性悪説は、人間の本性は悪だとするものです。先天的に悪を有していると考えるものです。
こちらも性善説と同じく、後天的に学ぶ事で善行をすることもあると言うものなのです。
ですが、善い行いをしたとしても、人間の本性は悪である事には違いないと考えるものです。
性悪説派の主な主張
良く子供は無邪気なだけに残酷であると言う言葉を聞きます。
性悪説派の人は、それをもって子供に善悪の区別、分別が付かないが、成長し学ぶ事で物事をわきまえる事が出来るからと言うものが多いです。
また、後天的に何を学ぼうが、結局、人は戦争をしたり、憎み合ったりすると言うことも性悪派の主な主張です。
その他の理由として、小さいところでは「人の不幸は蜜の味」と言う様に、人は人の幸福を望まないというものや、悪い噂はすぐに広まるのに、良い噂は全然広まらないというものがあります。
妬みや嫉みなどの感情もまた、性悪説派の人達の根拠です。
性善説派の主な主張
性悪説とは違い、性善説派の人達は、子供を無垢な存在であると考えます。
汚れ無き子供が、後天的に様々な事を刷り込まれるようになって、人は悪行を身に着けると言うのが性善説派の主張です。
また、人が本当に悪の存在であるなら、他者に共感したり、その事で涙を流したりしないと言うのも性善説派の論拠です。
どちらでもない派の主張
どちらも採用しないと言う人達の主張は、そもそも善悪の定義は何かと言うものです。
物事の善悪は、あくまで、人間が道徳的規範から作り上げたもので、真の意味での、善悪ではないと言うのが主張の肝です。
そう言う意味で、真の善悪の定義が無い中で、先天的に善である、悪であるとは決められないのではないかと言うのがどちらでもない人派の考え方です。
利己行動と利他行動
自らや自らの種の保存だけを考えるのが動物の本能です。
つまり、動物は全て利己行動しかとらないと言えるのです。
しかし、人間だけは人を助けたり、自己犠牲をはらったりと利他行動をとります。
自分を犠牲にしたとしても他者を助ける精神と言うものは、完全なる善の本性ではないかと言われます。
特に、利他行動は、咄嗟の場合に行われ、熟考した末にする事は少なく、それは善の本能に根差しているものではと考えられているのです。
しかし、他者を助ける為に、そのまた他の他者を害すると言う矛盾もあります。
これは、あくまで人が後天的に学んだ善悪の区別から行っているからであると考える場合もあります。
まとめ
いかがでしたか?
結局のところ、性善説にしても性悪説にしても真の意味で根拠はありません。
争う事が悪であり、調和を保つ事が善であると言う概念も、あくまで人間が作り上げたものです。
同じ種で殺し合ったりしたとしても、それは人間の道徳的規範によって悪とされているに過ぎず、真の意味では、それが善か悪かなど誰にも判りはしません。
また、善と悪と言うものがあったとしても、それは裏表であり、両輪でもあるのです。
つまり、誰かの為の善は、誰かにとって悪だったり、その逆であったりします。
今でも、国などや人種、宗教によって善悪の基準が違います。
例えば、どこかの国が豊かになると言う事は、どこかの国が貧しくなるのです。
人が助け合い、繋がる事で人口が増える事は、エネルギーや食糧の問題が起き、最終的に争いを生みます。地球にとっても良い事ではないのです。
常に、物事は綱引きで調和を取ろうとします。
その事には、本来、善も悪もないのです。